Voice 007. 争いから妥協へ

匿名希望

 私の好きなある作家が、「好きも嫌いも、興味のあることに対する評価である」と述べている。これは、好きと嫌いは対極にあるのではなく、同じものへの評価であるという点で、本質的には同一のものとして見なせるという考えだ。その作家の本を読んでおもしろい、ないしはおもしろくない、と評価する人々は、その作家を好きかどうか、という軸には乗っていない。おもしろいーおもしろくない、好きー嫌い、は別の軸である、ということだ。これはそうだろうと思う。

 これからなにを連想したかというと、いま巷をにぎわせている(のか?)心理職の国家資格問題だ。にぎわっているのは、その界隈の人たちだけだろう。臨床心理士がその専門家集団内で、自分たちの意見を主張し合い、時に異なる意見の集団を排斥している(ように私には見える)。現行の国家資格案推進派、反対派、そしてそれらに属さない派閥(これは実に多様であると思う)、という分類を、臨床心理士たちは行っているだろうし、自分も必ずどこかに位置することになると思う。しかし、これは実際のところ、周囲から見れば、「臨床心理士が自分たちの資格について揉めている」というようにしか見えない。内輪揉めにしか見えないだろうから、それぞれの主張など関心を持たれるところではないように思える。

 私はこれらの集団を、国家資格案に賛成か反対か、という軸で分けようとして対立構造にするのではなく、「臨床心理士の資格について見つめ直したい集団」としてまとめてしまえないのかなと思う。ベテランも若手も、この仕事をしている以上、どこかで国家資格化について考えている。それは国家資格の細かな要件に賛成—反対という軸なのではなく、「国家資格について真剣に考えたい」ということであり、賛成か反対かは、結局のところ、大きな問題ではないと思う。それは単に、食べ物の好き嫌い程度のものだ。真剣になにかを作り出す、ということの価値に比べれば、瑣末なことではないかと思う。いずれも、(中身は違うが同じ)国家資格に焦点を当てているのだから、基本的には、仲間であるというか、同じことに関心を持っている専門家集団であるのだろうと思う。それがなぜ争いに発展するのか、ここまで双方が排他的になるのか、ということが気になっている。それによって損得が生じるからであるのだろうと思うし、どちらに転んでもそれぞれに得をする人、損をする人がいて、それがシーソー・ゲームをしているにすぎないのだろうと思う。こうなってくると、問題は資格の内実ではなく、経済であり、権力であり、地位であるのではないか、という邪推すら浮かんでくるように思えるのだが、どうだろうか。クラシックかロックかで揉めるのではなく、同じ音楽を愛する者として妥協し合うことはできるように思える。

 それに、最初から完璧な資格を求めすぎているようにも見える。というより、いくつかの派閥が理想だと思っている国家資格のあり方から断固として歩み寄る姿勢がなく、それ以外の構想とはまるで共存できない、と言っているかのようである。それが悪いと言っているのではなく、そのような完璧なものを求める激動的なスピードに、ほかの者は付いてこられないのではないかと思える。私は付いていけない者に含まれる。なにが起こっているのか、さっぱりわからない。細々と現場で活動している、世間知らずな2年目の新米の現状など、そんなものではないのだろうか。

 なにかを作るときには、試行錯誤がある。それは構想を練る段階、取り掛かる段階、作っている段階、ひとまず作り終える段階、といった感じで、創造はある種の過程である。そうして作られたものが、完璧な満足を得られるものであることはほとんどないと言っていい。私はそれほど創造的な人間ではないが、私の周囲の創造的な人たちはそうである(母数は少ないので妥当性はない。私見である)。十分よく見えても、かならず不十分なところを見つけるし、それを解決する手段を考えているし、それができないときはしばらく放置したり情報収集したりするし、それでまた改善しようとしたものでも、理想的な、完璧な作品になることはほとんどないようだ。しかし、そこにも一定の満足があり、その楽しさに彼らは突き動かされている。創造物とは自己満足なものであり、自己満足が創造への渇望を掻き立てるものであり、だからこそそれは価値があるものになる。

 心理職の国家資格はどうだろうか?

 どのようなものになっても、誰かは満足しないし、誰かは不平を漏らすし、誰かは妥協するだろう。完璧に、これ以上のものはない、と太鼓判を押す者は、現実的ではないし、創造性も欠如していると思う。しかし、全体のために個はある程度の不満を分け合う、損を受け入れる、というのが、民主主義の根幹でもある。その責任は民衆である私たちが負うものなのだが、しかしそれだからこそ、自己非難を受け入れているところに、民主主義の意義があり、ではその不満や非難から抜け出すためにどうするのか、という次の過程へと進んでいく原動力も内在しているように思える。それは世間知らずの、理想的に過ぎる価値観かもしれないが、少なくとも、おのおのが完璧だと思う資格像を求めるいくつかの対立の中のどれか一つを採択するより、妥協点を見つけること、そして今後、自分たちはどのように不満を公平に分配し、またいずれはどのようにしてその不満を減じていくか、ということに議論を費やすほうが、よほど建設的に思える。とはいえ、私になんらかの具体的な案があるわけじゃないし、資格に関する現状を掌握できているわけでもない。一笑に付されるようなことを言っているのだろうな、という自覚もある。資格と自覚って、語音は似ているな。

 少し話は違うけれど、上位資格を設ける、というのは、なんだか、うーんと唸ってしまう。修士のころ(2012年ごろ)、上位資格の話題が持ち上がったときは、それもいいのかなと思っていたが、上位を上位として位置づけることを可能にする組織はどう編成されるのだろうか。その上位資格が上位のものであるとして、就職に有利になるほどの有力な資格になるかどうかわからないし、雇用する側もどう判断するのだろうか。より質の高い臨床家の能力をこの資格が担保する、と言っても、その多層構造は、上位資格が定着すればするほど下から上にどんどん出てくることもあると思うし、公認心理師を基盤にしていくつもの上位資格が追加されていくことになるだろうし、そうなると上位資格を交付する団体は、公認心理師を制定する団体との力関係が微妙になってくるのではないか。上位資格を交付する団体は、公認心理師団体と別団体を立てるのか、公認心理師の団体が併設するのかはわからないが、前者であれば現状の派閥間闘争の再演になるだろうし、後者であれば資格関係の全権を掌握する形になって非難を浴びる恐れもあるだろう。実現しそうなようで、しそうでない微妙さが、この上位資格案にはあるように思える。

 こうしたことは、私が国家資格化について多大な責任を負っていないから言えることかもしれないが、日本臨床心理士会に所属する臨床心理士としての選挙権を持っているのだから、発言することは許されるだろうと思う。このように末端が自由に発言できることが、そして「あなたたちの言っていることがよくわからないので、どうなっているのか、すみませんが、ひとつずつ教えてください」と地位や権力を持つ者に言えることが、民主主義の価値でもあるはずである。それでも、尋ねることのできない空気を、資格を取得して日の浅い臨床心理士は、大いに感じているのではないかとも思う。私たち若手が、「忌憚のない意見」を述べるには、戦火が激しすぎるように思えるのだ。

 妥協へと至る道は、どこにあるのだろうか。